Sが目覚める/一握りの血

「うぅ…名作は何度見ても名作だぁ…切ないねぇ…」

寒い冬も折り返し始めた頃。
アサシンはソファに座り借りてきた映画を鑑賞していた。右手にはハンカチを持ちガスマスクの上から涙を拭く仕草をする。あくまで仕草であって外見上は何も変わっていないが。

「桜の花びらが落ちるスピードは秒速3キロなんですって!!……いやこれ早くね?」

ウィリーはそんな一人で叫ぶアサシンを無視して依頼料の請求書の整理を進める。アサシンの喋る内容は基本、親の気を引こうとする子供と何ら変わらない。最も親なら子供を気遣って相手をするのだろうが、ウィリーには関係の無い事だ。
今回はとある会社の社長のボディガードを務めるという依頼に対しての請求書だった。途中、影で黒カードを使い社長を抹殺しようとした副社長の犯罪の証拠を掴むため走る事にもなったが、依頼は完遂したので働いた分に見合った額を要求しなければならない。過去の事例と見比べる為に記憶の底から引き摺り出す。

「さーて今度は何しようかなー。ゲームしよゲーム。ゲームの中なら私はスーパーヴィランなんだ。あ、コーヒーってさ砂糖食べる為の物だよね?」

そして相変わらずアサシンの発言には一貫性が無かった。いそいそとゲームを起動する準備に取り掛かるアサシン。
ウィリーが紙に向かってペンを進める。アサシンは機械に向かって電源を入れる。
ウィリーがコーヒーを入れるため立ち上がる。アサシンはコントローラーを操作し始める。
いつもと特に変わらない、言ってしまえば代わり映えのない穏やかな時間が流れようとしていた。

「…誰か来たな」

しかし何か気配を感じたウィリーはコップを机に置くと入り口に向かう。
その時、扉が音を立てて勢い良く開かれた。ウィリーは思わず身構える。

「はぁ…はぁ…」

そこに居たのは下畑来野だった。彼女は事務所を度々訪れてウィリーに学内新聞記事のための取材を持ちかけたり、アサシンと一緒に駄弁っていたりする地元の高校に通う女子高生だ。しかし魔術などといった一切関わりのない学生である。
そんな来野が肩で息をしながらこの入り口に立っていた。
何故彼女が、とウィリーは疑問に思った。この時間帯は未成年が一人で出歩く様な時間でもないし、事務所に訪れるような時間でもない。
だがウィリーが疑問を言葉にするより先に来野は口を開く。

「助けてください!!その、お願いです!」

ウィリーは即座に扉を閉め、彼女の背中を押して部屋の奥に行くように促す。そして日頃は掃除用のロッカーに隠してあるショットガンを手に取ると何かを呟きながら慎重に扉を開けーーー

「いや、違うんです!助けて欲しいのは私じゃなくて!」
「違うの?一体どういうことなの?」

流石に無視していられなくなったアサシンはゲームを中断し二人の側に近寄る。
ウィリーはそれでも外を警戒し、何の気配も感じ取れない事を判断してからようやく振り返る。

「まず何故この時間に来たのか、助けて欲しいというのはどういう意味なのか説明しろ」

挨拶もそこそこに来野を応接用のソファに座らすとウィリーも向かい側に座り、慣れた手つきでコーヒーではなく温かいお茶を入れる。彼女の好みは把握しているのでそれに合わせた行動だ。

「えっと、ですね…まずこんな時間にお邪魔してすいません。でもどうしてもウィリーさんに頼みたい事があったんです」
「助けて欲しい、という件か。説明しろ」
「はい…ちょっと長くなると思うんですけど…」

彼女は語り出した。
アサシンもテレビの音量のボリュームを下げる。
ぽつり、ぽつりと途切れ途切れに。だがそれは確かな意思を持って紡がれていく。
時計の針だけが、話と共に歩み始めた。

◆◆◆

あれは部活の関係で学校から帰るのが遅くなってしまった日でした。
もうすっかり日が暮れてしまい、あまり帰るのが遅くなると心配してくれるお手伝いさんに叱られてしまうので私は普段あまり通らない公園を通って帰ることにしました。この方が実は早いのです。
そして公園の中でも舗装された道を通っていた時の事でした。
池に架けられている橋に誰かが立っていました。
最初はあまりに暗くて、ぼんやりとしていたので幽霊から何かかと思ってしまい、その場で立ち止まってしまいました。
よく目を凝らすとその影は私と同じ学生服を着た女子だったんです。何であんな橋の真ん中で立っているんだろう、と思ったその時でした。
その子が身を投げ出したんです。それはもう、何の躊躇いも無く堂々と。見せつけるように。
私はその現実離れした光景に一瞬、あっけに取られました。確かにドラマや漫画でいうところのよくあるワンシーンかもしれません。
ですが、いざ実際に起こるとこうも人間は動揺するのかと、強く思わされました。
ざっぱん、と波飛沫を上げて沈んでいく彼女。
私は何も考えずに鞄を置くと、彼女が沈んだ場所まで泳ぎました。ですが制服が水を吸って重いし、この時期の水はとても冷たく彼女までの道のりは大した距離はないはずなのに、今、人生の中で一番長く泳いでいるのかと思ってしまうほど辛かったです。
夏の頃に学内新聞に載せるため調べていた救命のやり方を何とか思い出し、岸まで一緒に乗り上げる事ができました。
私は救急車を呼ぼうと震える手で鞄から携帯を取り出したのですがーーー

「………」

彼女に腕を握られました。その力はどちらかといえば強く、意識があって良かった、と安堵しました。
それでも万が一があってはいけないので救急車を呼ぼうとしていたのですが、彼女は首を横に小さく振りました。
その動作に込められていた意思は感情であるところの拒否でした。何故、と口にする前に彼女は咳き込みながらも喋りました。

「気が迷っただけだから。公にされると迷惑だから」

そう言うと立ち上がりその場を去ろうとする彼女。そのまま自殺しようとした人を何もせず帰すわけにはいかなかったので、私は咄嗟に彼女の肩を掴みました。
引き止められたのが予想外だったのか驚いた様に振り向く彼女。よく見えなかったその顔と格好に見覚えがありました。

「黒門、さん…?」
「…あなたは」

黒門澪ーーー私のクラスメイトの女子生徒でした。季節を問わず制服の上に常にカーディガンを羽織っている子です。
誰とも喋りたくない、という雰囲気をいつも出していて直接喋った事は数回しかありません。黒門さんは私を見るとクラスメイトだと思い出したのかすぐに行こうとします。

「離して」
「すいません、それは、無理です!」

こうして関わってしまった以上、もう他人事ではありません。引き下がらないお節介なクラスメイトを振り払うのも面倒だと思ったのか、黒門さんは近くのベンチを指差しました。
意図を察した私は温かい飲み物を二つ自動販売機で買ってきて一つを黒門さんに渡しました。

「…どうして身投げをしようと思ったんですか?」
「直球ね」
「すいません…上手い言い方が思いつかなくて」
「別にいいけど。貴女は誰かとの繋がりを求めた事、ある?」

唐突な彼女の質問に私は言葉に詰まりました。
繋がり、といわれても漠然とした物しか思い浮かびません。今まで考えたこともありませんでしたから。
そんな私を見て黒門さんは立ち上がりました。

「じゃあね。コーヒー、ありがとう」

この時はまだ、彼女が私に何を期待してこの質問をしたのかはわかりませんでした。
ただ黒門さんが座っていた場所にコーヒー缶がぽつんと置かれていて照明の光に照らされていました。
その飲み口は、開けられていませんでした。

◆◆◆

パソコンに向かい合ってキーボードを打つ。
カタカタという音と共に画面に文字が紡がれていきます。家ではあまり集中出来ないので、学校に入れる間に出来るだけやっておく必要があります。

「もうこんな時間か」

そう呟いても反応してくれる人は誰もいません。それも当然です。この小さな新聞部の部員は私だけなのですから。もし生徒会の方針が変わったら真っ先に潰されるのは新聞部でしょう。
今は生徒もあまり来ない廊下の端の空き教室を使わせてもらっています。
来週の記事の見出しの為にフォントの設定を変えた時でした。私以外はまず触らない扉が開けられて、誰かが入ってきました。
教師か生徒会のどちらかだろうと思い顔を上げるとそこには黒門さんがいました。彼女は今まで一度も入ったことがないであろう部屋をじっと眺めてから私に話しかけてきました。

「ここにいたのね」
「…何か私に用ですか?」

昨日の今日で会うことになるとは。クラスでは何事もなかったように振る舞っていたのに。
黒門さんは困惑する私を他所に机に硬貨を何枚か置きました。
百円玉が一枚、十円玉が三枚。

「これは?」
「昨日の飲み物代。値段は知らないけどこれだけあれば足りるでしょ」
「えっと…ありがとうございます。でも昨日あのコーヒー飲んでましたっけ?」
「要らないって言いたいの?」

少しばかり眉間にしわを寄せる黒門さん。
私はすぐにお金を取って財布に入れました。

「私の用はこれで終わりだから。じゃあね」
「ちょ、ちょっと待ってください。黒門さんに言いたい事があるんです」
「貴女、引き止めるのが好きなの?」

黒門さんは呆れたように振り返りました。
普段はあまり向けられる事のない他者からの訝しむ目線に私は少し身を固くしました。

「昨日、私に聞きましたよね。誰かとの繋がりを求めてかどうかって」
「そうだね」
「私なりに答えを用意しました、聞いてくれますか?」

黒門さんは無言で頷きました。

「私、実はあんまり両親と仲良くないんですよ。勿論二人は私を育ててくれましたし、今だって学校に通わせてくれます。…でも、それだけなんです」

贅沢な話だと思いました。この世界には、親からの愛情を受けたくても、子供に愛情を与えたくても出来ない人で溢れかえっているというのに。

「それが世間の普通では無い、だなんて事に気が付きたくはありませんでした。埋めたかった。両親からの愛が足りないのなら、自分から周りを愛して足りない部分を埋めたかったんです。…普通にならなくちゃいけなかった」

だから私は新聞部という選択を選んだのだと思います。
学校という空間に囚われずに、自由に外へ行けるから。
誰かについての記事を書くというその行為に、確かな繋がりを感じられるから。

「私は繋がりを求めます。もし、この考えすら間違っているのなら私は…」

改めて言葉にして自分から現実を口にするのは苦しい事でした。心では分かっていても。
ですが、一度黒門さんに聞かれたのなら。
彼女を助けてしまった私が出来る唯一のことならば。
私が躊躇う理由にはなりえませんでした。

「…もう、いいよ」

言葉が喉に張り付いて上手く出せない私。
黒門さんはそんな私の頭をそっと撫でました。そのゆっくりとした動きは優しさに溢れていました。
こんな事をされたのはいつぶりだったでしょうか。

「ちゃんと答えてくれてたの、貴女が初めて。ありがとう」

黒門さんはそこで初めて笑みを浮かべました。
きっと、クラスメイトでも彼女の笑顔を見たのは私ぐらいかもしれません。

「それじゃあね」

そう言い残して彼女は部屋を出ていきました。撫でられた感触が、いつまで経っても残っていました。

◆◆◆

それから黒門さんは定期的にこの部屋を訪れるようになりました。
三日に一度。二日に一度。そして毎日。
あまり友達がいない者同士どこかで近いものがあったのかもしれません。強張っていたその表情が柔らかくなってきた頃。
彼女は出された課題に取り組んでいたり、棚にしまわれている本を読んだりと自由に過ごしていました。棚には私の趣味の本が半分、資料用の本が半分です。私以外の誰かが手に取る日が来るとはまるで思ってませんでした。
そしてある時は作業中のパソコンを覗き込んで誤字を指摘してくれる時もありました。
そんな放課後が一ヶ月近く続き、確かに互いの距離が縮まってると思い出していたある日。

「お茶、飲みます?」
「いただこうかな」

私はポットからお茶を注ぎ、カップに入れました。そしてそのまま持っていこうとした時。

「あっ!?」
「…え?」

パソコンのコード類に足を取られた私はそのまま転んでしまい、お茶が手元から滑って飛んで行きました。
そしてそのお茶の着地点は黒門さんでした。

「っ…!」
「ご、ごめんなさい!今拭きますから!」

赤いカーディガンに広がる染み。
それを見た私は考えるより先にハンカチを取り出して、急いで黒門さんの制服を拭きました。

「本当にごめんなさい!大丈夫ですか!?」
「う、うん…。まぁ顔には来なかったし」

黒門さんとここまで近づいたのはあの公園の時以来でした。だからこそ、気付いてしまったんです。
彼女の制服の隙間から見える赤い横筋の傷に。

「これって…」
「どうかした?」
「あ、いえ、何でもありません!」

それは一筋ではありませんでした。何筋も入っていて、化膿しているのかやけに白く見えました。
明らかにただの怪我ではありませんでした。他人から振るわれた暴力の証です。

「はぁ…びっくりした」
「……」
「別に怒ってなんかないよ」
「は、はい…」

私はすっかり上の空で黒門さんに返事をしました。
彼女に刻まれたあの生々しい傷痕。
不意に、黒門さんと初めて会ったあの夜のことを思い出しました。入水自殺を試みた彼女。その動機なんて今の今まで考えた事もありませんでした。
これ以上は考えたく無い。そう思っていても、頭の片隅では点と点が繋がってしまいました。

「………」

私は、黒門さんと目を合わせられませんでした。

◆◆◆

それからまた数週間が経ちました。というか今日なんですけどね。
黒門さんは一週間続けて学校に来ませんでした。担任の先生は特に理由をみんなの前で語りませんでした。需要が無いからでしょうか。
ですが、私はどうしても理由が気になり先生に尋ねました。
理由は至極単純な物でした。家庭の都合。先生はそのまま良かったら黒門さんの家にプリント類を持っていって欲しいといい私に持たせました。
思うところはありましたが、断るわけには行きません。
黒門さんの家は潜柱町の住宅街にありました。古いタイプのチャイムを鳴らしても反応はありません。

「すいませーん、澪さんのクラスメイトの下畑ですけど」

しばらくすると扉が開けられました。出てきたのは黒門さんでした。壁にもたれかかる様にして出てきた彼女。
私は思わずぎょっとしました。その動きにはまるで生気が無かったからです。
何か悪い夢で起きてしまった時の様な。

「あぁ、うん。ありがとう」
「その…大丈夫ですか?学校来てませんけど」
「相変わらず直球だね。…大丈夫だよ。じゃあね」

そう手短に済ませて扉を閉めようとする黒門さん。ですが、私の瞳は捉えてしまいました。
電気のついていない廊下の奥。そこにいた男の人を。
その人の瞳はあまりにぞっとする物でした。目が合った瞬間、思わず後ずさってしまうほど。今でも思い出せるほどでした。
その人の周りだけ悪意で歪んでいる様な、まるで狼が今にも飛びかかってきそうな感じでした。
だから、何かとても恐ろしい予感がした私は走ってこの伏神探偵事務所まで来たんです。

◆◆◆

ここまで言うと来野は初めて喋るのを辞めてお茶に手をつけた。ウィリーは来野の話を聞いている間はずっと沈黙を貫いていたがやがて口を開いた。

「つまりお前はその黒門澪が親から虐待を受けているかもしれないから調査してほしいという事か」
「えっと…はい、その通りです」

言いづらい事をそのまま言葉にしたウィリー。日頃の彼とは違い、放つ雰囲気は相手に有無を言わせない重さがあった。
恐らく自分を一人の依頼者として扱ってくれているからだろう。来野はそう思い気を取り戻す。

「そうか。だが、これは日頃俺が受けている様な猫探しなどとは事情が違う。もし何かの勘違いだった場合、お前は責任を取れるのか」

ウィリーは淡々と言う。
確かにいくら来野がまだ子供であったとしても誰かを虐待の犯人としてレッテルを貼り付けて仕立て上げるのだ。間違いならばそこには少なくない責任が伴う。

「それは…」
「それにこれは本当に俺が適任なのか。私立探偵よりももっと頼るに然るべき機関があるはずだ」

学校で定期的に配られるカードを思い出す。そこには悩みを持つ子供がかけられる様に電話番号が記載されている。
…確かに餅は餅屋だ。例え危惧している事態が行われていたしてもその後の社会的な手続きは彼の専門外だろう。
そうして考えていると来野はすっかり冷静さを取り戻してしまった。

「そう、ですね…。すいません、ウィリーさん。私、変なこと言ったみたいで」
「だが」
「え?」

ウィリーは来野の言葉を遮った。そして目線だけを動かす。その先には机に突っ伏して寝息を立てているアサシンがいた。
集中力が続かなかったらしい。

「むにゃむにゃ…これ以上人は襲えないよ…」
「お前はここに来るたびあれの相手をよくしていたな」
「えっと…?」
「あれが静かになると俺の作業は捗る。だが俺がそれをするには少なくない労力を要する。だからあれを速やかに静かにさせられるお前にはそれ相応の対価を支払うべきだ」

目の前の探偵の言いたい事がよくわからず来野は首を傾げる。ウィリーはそんな彼女を知ってか知らずかある要求を口にした。

「黒門澪の住所を俺に教えろ」



私立探偵がとある依頼を引き受けた翌日の昼。
伏神警察署本ビル、その一室で緊迫した空気が流れていた。本部と所轄、合わせて数十人の刑事が神妙な面持ちで資料に目を通し、前に設置されたホワイトボードに貼られた写真と照らし合わせる。
ーーーここ数週間、伏神市で連続通り魔事件が起こっていた。被害者は現時点で六人、サラリーマンを始めとしたバラバラの職業の人間が犠牲者となっている。いずれも時間を問わず行われているが、現場は必ず狭い路地裏などの人目につかない場所だ。
犠牲者は鋭利な刃物で執拗なまでに体を切り裂かれていいる。それこそ、遺体の損傷が激しすぎて本人の特定が遅れてしまうほど。
監視カメラに写っていたのはペストマスクを付けて顔を隠している黒づくめの男。時代錯誤であり非常に特徴的な外見だが、未だに誰かは特定されていない。
警察の中には、彼を『黒犬』と呼ぶ者もいる。その残忍な手口は人とは思えないから、らしい。
被害者の彼らは目立った保険金がかけられていたわけでもない。
この事件を重大案件と捉えた本部は捜査本部を設置、迅速な解決を目指す事となった。
そしてこの部屋の一番後ろの席に特状課の刑事、レトヴィザンとその上司である長髪の青年は座っていた。

「なるほど、それでどうしてこの事件に魔術的要素が関わっていると考えられたのですか?」
「先日の連続襲撃事件、大型マンションでの行方不明事件。このどちらも例の『カード』が関係しているらしい。そのカードとやらが何なのかは知らないが両方の現場からは多少の魔力が空気中から検出されている。だから今回も、カードが関わっているかもと思ったんだ」
「カードって…たまにクリスさんや犯人が呟いてるアレですか」

カード。
それは度々、特状課内での話題に上がる。取り調べで一部の犯人は『カードの魅了に抗えなかった』と供述しているからだそうだ。当初は危険ドラッグの隠語だと思われたがそうでも無く、また犯人たちの体からそのような物は確認できなかったため混乱の中、口走ったと判断されている。
そんな不確定な存在をこの上司は視野に入れているらしい。

「しかしカードはカードでも人を惑わせ狂わせるカードだそうだ。今回の事件も明らかに正気で行ってるとは思えないし、関係性が確認されていない犯人たちが全く同じ証言をしているのだから考慮すべき対象だと俺は思う」
「仮に実在するのならそれは魔術礼装…なのでしょうか。確かにそうならば犯人達が本来なし得るはずがない犯罪を実行できる事の説明もつくのですが…」

この一連の襲撃事件は数ヶ月前の金森雄介氏関連の事件を想起させた。あの件もカードについての供述が確認された一例だ。だが、それについての深い掘り下げなどは行われていない。
犯人たちを直接逮捕したクリスもカードなどは知らないと話した。
板チョコを取り出し食べ始める上司の隣でレトヴィザンはカードの事も含めてメモに書き込む。
他課の刑事からすれば、普段何をしているかよくわからない特状課。それだけで周りの刑事達から奇異の目を向けられるというのに、堂々とチョコを味わい始める男と外国人の若い女という組み合わせはそれを倍増させていた。
最も、彼らがそれを気にする様子はないが。

「もし魔術が関わっているのなら、僕達が動いていいんですよね?」
「それはそうだけど。いつもに増して積極的だね、レトヴィザン」
「勿論、刑事としてこんな多くの人を巻き込んだ犯人を許せないというのはあります。でも、それ以上に魔術師の起こした事件は同じ魔術師が解決すべきです。それが魔術師として警察になった僕の役目です」

レトヴィザンは熱っぽく語った。
青年は頷いてこそみせたが、そこにはどこか白々しいものが見え隠れしていた。

「そういえばクリスは?まだ来ていないのか?」
「…電話を三度程かけたところで目が覚めたようです。今こちらに向かってるかと」

ため息をつくレトヴィザンに苦笑を浮かべる青年。クリスは検挙率こそ署内で一、二を争うほど高いが、組織に所属するには全く相応しく無いほどのマイペースでおざなりな気質だ。
事務の職員たちでさえその言動に振り回されがちだというに、共に捜査に当たることが多い彼女の気苦労が知れる。

「どうして君はクリスとーーー」

青年が疑問を口にした時だった。
会議室の扉が開かれ、若い一課の刑事が慌てた様子で入ってきた。

「せ、潜柱町でパトロールをしていた警官から何者かに襲撃されていると無線で連絡が入りました!」
「何だと!?」
「現場の近くにいる他の警官に向かわせていますが…どうしましょうか」
「俺たちも行く。お前は鑑識課に連絡を入れろ!」

一瞬で騒然となった会議室。
数人の刑事がすぐさま立ち上がり急ぎ足で出ていく。
レトヴィザンも現場に向かおうと、青年の方を向いて話しかけようとするがーーー

「…あれ?」

そこにはもう誰も座っていなかった。ただ、チョコを包んでいた銀紙が丸められて机の上に置かれていただけだった。
 


「ヒャッッッッハァァァァ!!!遅刻するぅぅぅ!!!」

法定速度は死んだ。
大通りを爆走する赤い稲妻。それを駆る者もまた、悪魔じみた笑顔と汗を浮かべていた。
波濤の様に後方へ下がっていく景色を横目に、片手で音楽を選択する。スピーカーから流れ出したのはお気に入りのアクション映画のメインテーマだった。リズムに合わせて車は弾み、車内に積まれている雑誌も上下する。アクセルも更に踏み込まれる。

(…久しぶりに目を覚ませばこれか?マスター、ここ最近何をしていたか言ってみろ)
「フッ、クリスマスはめでたいらしいから酒を飲んでいた。年末は休むべきだからもちろん酒だ、正月も…酒だったな。ああそれと」
(もういい…これ以上は聞きたくない)

呆れ返って閉口するアーチャー。彼は基本、伏神探偵事務所など、専用の術式が展開されている空間でしか実体化できない。マスターと視界や聴覚を共有する事はできるし永続的に発動しているスキルの効果も途切れないが物理的な干渉は出来ない。つまるところクリスが動かなければ、彼はただのカードだ。
そう、年末年始を彼はただのカードとして過ごさなければならなかった。肝心のマスターが買いこんでいた酒をひたすら飲んでは映画を観る生活をして送っていたせいで。
そんなやり取りをしていた時だった。アメリカ式パトカーのMAX・デッド・ヒートに備え付けられた無線がノイズ音を発した。
これが使われる時は本部からの連絡が入る時のみだ。
二人は会話を中断してそちらに集中する。

『パトロール中の警官に告ぐ!潜柱町で襲撃事件が発生!犯人は一連の襲撃事件の犯人だと思われる!付近の警官は急行せよ!』
(潜柱町だと…?)
「すぐ近くだな、向かうぞ!」

クリスはハンドルを切ると目的地まで向かう。外向きへ改造されたタイヤがアスファルトを焼く。アーチャーの直感によって導き出された現場までの最短ルートを走り抜ける。
数分で到着すると同時に先日ようやく取り付けられたブレーキをかけMAX・デッド・ヒートから降りた。同時に銃を抜き、辺りを警戒しながら歩いていく。
潜柱町は伏神市の中では比較的住民が少ない方に属する。平日の昼間という時間も合わさって森閑としているのだがーーー

「…何の音だ?」

どこからか、金属が擦れる様な音が聞こえる。耳障りな音だ。一定のリズムをもって繰り返される音源を探すべく走る。
角を曲がった時だった。クリスは思わず息を呑んだ。

(…こいつか)
「…あぁ」

死体の顔を掴んで持ち上げ、赤く染まった手鎌を片手で持ち斬りつける黒づくめの男。顔には白いペストマスクをしており、表情は窺えない。
血塗れの服から、からうじてそれがここをパトロールしていた警官だということがわかった。
すでに地面に落ちていた左手には通信機が、右手には銃が硬く握られていた。彼が最後まで襲撃者に抵抗しようとした証だ。
黒づくめはクリスの事を目にくれず警官の上半身と下半身を二断した。ぼとんと足元に落ちる音を聞いてようやく言葉を発した。

『我がツァーリの、仰せのままに』

その宣言を受けたクリスは間髪入れず銃を取り出した。その銃弾は例えガンドの魔術でも有効なダメージが与えられないだろう。だがそれでもクリスが銃を抜く理由があった。
この黒づくめからは、正気が感じられなかった。
逆恨み。
固執。
食欲。
今まで相手取ってきた黒カード使い達は皆、強い衝動や欲求に駆られ支配されるというある意味人間らしさを持っていた。だが目の前の黒づくめはそんなものを持ち合わせているとは到底思えない。あんな淡々と、作業のように死体を切り分ける相手には。
まるで感情を見せない敵と相対したクリスの本能は警鐘を発したのだ。
残虐な行為を平然と行い続けてきたであろう相手に対し、クリスは恐怖を熱の篭った感情へと昇華させた。

(…not cool)
「…わかっているさ。この街に、これ以上涙は流させない」
「『夢幻召喚(インストール)!!』」

砂塵のオーラが晴れると同時に変身は完了する。
インストール形態のアーチャーは銃を抜く。
二人が引き金を引いたのはほぼ同時だった。
無骨なボウガンから発射される弓矢。それを真っ向から弾丸が受け止め粉砕する。
本来なら弾同士の衝突などまずあり得ない。アーチャーのガンマンとしての腕があるから為せる技だ。

『おぉ…全ては…栄光を…!!』

要領の得ない発言を繰り返す黒づくめ。意識が混濁しているのかペストマスクの視線の先はアーチャーを向いていない。
農業用にしてはあまりに大きな手鎌を構える黒づくめとアーチャーが睨み合う。
先に動いたのは黒づくめだった。弾かれたように駆け出すと手鎌の一閃が振り下ろされる。アーチャーは柄に肘を当て凶刃を防ぎ、そのまま腹に鋭い蹴りを入れる。

『叛逆者…!!』

のけぞる黒づくめ。獣のような唸り声を漏らし、手袋を突き破って尖った爪が生えた。黒い人狼はその敵意を隠そうともしないが、アーチャーは余裕げに顎をさする。

『フッ…喋るコヨーテは初めて見るな』
『捧げよ…!その血を捧げよ…!』
『COOLじゃないな、今日の散歩はお預けだ』

爪が生え、凶暴性が増した拳撃を最低限の移動だけで避けていく。苛立ち混じりの唸り声を上げた黒づくめは手斧をブーメランのように投擲するがアーチャーは動じない。
爪の猛攻をいなすと、後方へと振り向きもせず銃を撃つ。銃弾が手斧の中心へ命中しそのまま軌道は逸れる。
そして腹に届く寸前で相手の手首を掴むとリボルバーをそのまま突きつけた。この後確実に行われる未来を察した黒づくめは振り解こうとするがアーチャーは離そうとしない。

『ファイア!!』

掛け声と共に放たれた弾丸が黒づくめの腹と衝突する。
その衝撃は到底抑えきれるものではなく、宙を舞い、道の奥へ殴られたように叩き込まれた。
それでもペストマスクの下からは爛々とした敵意が滲み出るがアーチャーはそれを意にも介さずリボルバーに弾丸を込め直す。

『フッ…安心しろ。お前の行き先は地獄ではなく、とりあえずは牢獄だからな』

銃口を向けて宣言するアーチャー。この後には色々と聞き出すことがある。例えば、黒カードを渡した者の正体など。
そう考えながらトリガーに手をかけると引こうとするがーーー

『…!?』

何かが、近づいてくる。アーチャーのスキルである直感はそう警鐘を鳴らしていた。
咄嗟にその場から転がるようにして移動する。それが来たのはその直後だった。
炎に包まれて隕石のようにそれは落下してきた。着地した瞬間、猛烈な爆風が衝撃波となって周囲を破壊する。
火の粉と煙の中から一歩出てきて姿を晒したそれはーーー

『よぉ、ガンマン…だったっけ?会いたかったよ』

薄黒色の髪を風にたなびかせ大弓を片手に持った弓使いは、アーチャーを見るとニヤリと笑った。その目には闘志の炎が宿っていた。
瞬間、アーチャーは目の前の乱入者を敵だと捉え、銃を突きつける。

『フッ…来るならせめて一言連絡が欲しかったな』

言葉こそ強気だが、この予想外の事態にアーチャーは動揺していた。元々彼は見た目に合わない建設的な性格で、こういう突発的なアクシデントがあまり好きではない。このまま黒づくめを倒すという予定が狂ったのだ。
そして、揺らいだ戦意の間隙を縫うようにクリスの意識も表層に浮き出てくる。

「運が悪かったな、このクリストファー・D・クライ…クリストファー・ダークコーリング・クライ、人呼んで闇の貴公子な男の前に立ちはだかるとはな!!」
『…マスター、ここは無理をしないほうがいい、素直に黒づくめを回収して撤退を』
「何を言ってるんだ?俺に会いたがっていたファンなら無碍には出来ないだろ」
『おう、それがアンタの名か!クリストファー・D・クライ…そんな英霊には会ったことが無いな。まぁいい、私の事は孟飛刀って呼びな!クリストファー・D・クライ!』
『…おい、無視するな!』

どちらにしろあんなにも戦いたい、というオーラを発している相手の目を盗んで逃げだす事など出来ないだろう。
アーチャーは一度深呼吸すると覚悟を決めた。
銃を撃つと同時に走り出す。地面を蹴り、跳ぶ。
もう片手に握られた銃を取り出し、銃口を向ける。射線の先に孟飛刀の頭を捉えた。

「ーーーッ!!」

だが、引き金に手をかけた時、既に孟飛刀の姿は無かった。
風に揺られる煙だけが残されていた。アーチャーの視界に影が落ちる。
一瞬のうちに背後を取られたか。そう考え、視線だけを向けるとそこには孟飛刀がいた。そして炎を纏った鞭ーーーいや、関節刃の切っ先がアーチャーへと迫っていた。

『チッ…!!』

空中で無理やり体を捻り、避ける。銃弾と謙遜ない速度で関節刃を叩きつけられたアスファルトには大きな赤い傷跡が残されていた。
負荷のかかる着地で軋む体を無視し、同じく着地した孟飛刀に接近する。腕の延長のように振るわれる関節刃。縦横無尽に大気を切り裂き、アーチャーがコンマ数秒前まで居た地点を的確に抉り取る。
右。左。右。ジグザグに移動し、時にはほんの少しだけ速度を落とし、ステップを混ぜて惑わせる。
そして遂に孟飛刀の目前まで迫った。

『…次は外さん!!』

アーチャーは二丁拳銃に込めてあった全ての弾を惜しみなく解き放つ。彼らは孟飛刀が全身から放つ魔力の炎の壁に呆気なくかき消された。
だが、一瞬とはいえ炎の勢いが弱まり、壁が薄くなる。
それを見抜いたアーチャーはすかさず腰に差してあるナイフを抜き、自身に火が移ることも構わずに心臓を目掛けて突き立てた。
関節刃の切っ先はアーチャーのすぐ後ろを通ったばかりだ。今目の前にあるのは関節部分の脆弱な箇所であり、刀身の切っ先が戻ってきて主を守るには時間が絶対的に足りない。
孟飛刀の表情が驚愕に満ちる。
勝ちを確信したアーチャーはそのままナイフをーーー

『面白い事するじゃないか!!ガンマン!!』

返ってきたのは称賛の言葉と火花だった。そして、ナイフは孟飛刀の心臓の数センチ前で止められていた。
絶対的な壁として立ちはだかっていたのは炎を纏わせた直刀の腹だった。
一体どこから具現化させた?アーチャーはナイフを押し込む力を一切緩めずに考える。
答えはすぐに出された。目の前の刀身が僅かに伸び縮みしたのをアーチャーは見逃さなかった。そう、あの関節刃の蛇腹こそがこの直刀だ。
咄嗟に手元の節々だけを剣に変形させて防いだのだろう。まさかこんな機構を備えた宝具だったとは。

「変形武器か」
『フッ…ロマン、とかいうやつだったか?』
「こんな状況じゃ無ければ、な…!」

そのまま驚異的な膂力でナイフを押し返すと、軽々と直刀を振るう孟飛刀。全ての動きが次の動作へと滑らかに繋がる。その巧みな剣捌きは本職が剣士なのではないかと思わせるほどだ。
当たれば手痛い一撃なのは言うまでも無い。アーチャーは斬撃を躱しつつも銃撃を交えて反撃を試みる。
拳銃を十字に交差させ、振り下ろされた直刀を食い止めた時だった。
孟飛刀は片手を直刀から離すと拳に炎を纏わせアーチャーを殴り付けた。

『ぐうっ…!!』

咄嗟に銃の側面で防いだが、威力は殺しきれる物ではなく、後ずさる。そして生まれた隙を突いてアーチャーの持っている二丁の拳銃を斬り上げ、弾き飛ばした。

『もう終わりか?なんだい、案外呆気ない幕切れだ』

互いの顔が触れ合ってしまいそうな距離まで近づき、襟を掴んで無理やり立たせる孟飛刀。その顔は失望に近い感情に染まっていた。
ここまで戦えたのは久しぶりだ。日頃の黒カード達とは比べ物にならない。だから少しは期待していたのだが。
しかしアーチャーはニヒルな笑みを浮かべていた。
その状況に見合わない態度に対し、訝しむ孟飛刀。再び表層に出てきたクリスの意識がアーチャーの口からある言葉を吐き捨てた。

「"Not without incident."。俺の名はクリストファー・R・クライ。世界を覆す男だ!!」

瞬間、アーチャーの袖の中からガチャリ、と何かが動く音がした。孟飛刀がそれを知覚すると同時に勢いよくスプリガンによって射出され、アーチャーの手に収まったのは新たな二丁拳銃だ。
ベレッタ92ーーーとあるアクション映画でも使われた演出は、今ここにアーチャーの武器となった。
ロクに狙いもつけず、ただ目と鼻の先にいる標的に向かって引き金を引き絞る。飛び跳ねる大量の薬莢。後のことを何も考えていない射撃は、確かに切り札の一手になったはずなのだがーーー

『おっと…今のは流石に危なかった』

思わず手で遮ってしまうほどの熱波がアーチャーを襲う。全身に焔を不死鳥のように纏わせギリギリの所で弾丸の嵐を防いだのだ。
そして蹲って気を失っている黒づくめを抱えると塀の上に跳び乗る。
その様子を見た瞬間、クリスの意識が再び表層に上がってきた。

「待て!!逃げるのか!?」
『あぁ。そろそろ本来の目的を思い出してくれ、ってマスターが煩くてね。次に会ったらどっちかが死ぬまで戦おうじゃないか!!』
「…待て!待つんだ!!一方的に逃げるんじゃない!!このままじゃ俺が…!!」

先程までの様子とはうって変わって焦った風に孟飛刀の頭を目掛けて銃口を向ける。だが彼女の周囲を囲む炎が一瞬激しく光を放ち思わず目を伏せた。次に目を開けた時、そこにはもう誰もいなかった。

『逃げられた、のか…』
「クソ!やりやがって!!」

思わぬ乱入者もいなくなり緊張の糸が切れたアーチャーは銃をしまおうとするが、クリスはそんな事に構わずいつもはクールじゃない、という理由で絶対にしない悪態をつきながら銃を空に乱射する。
そこにはもう誰もいないというのに。
薬莢が転がる音は、どこか虚しいものだった。



「なるほど。それで例の黒犬には協力者がいたと」
「あぁ。車に戻っていいか?休みたいんだ」

パトカーで駆けつけた警察官達は現場を封鎖して鑑識と合同で調査に当たっていた。所々に火の粉が舞っていたり、薬莢がそこら中に落ちていたりと不可思議な状況ではあったが特捜課の刑事もいたおかげでそこは深く追求されなかった。
しかし、レトヴィザンはクリスに対して質問責めをする。テンションの上がらないクリスとしては早く帰りたいのだが彼女はそれを許そうとしない。

「いえ、まだですよ。その協力者についてもう少し詳しく聞かせてください。クリスさんとは久しぶりに会ったのでもっとお喋りしたいんですよ」
「…後で報告書に纏める」
「全体が一人の為に奉仕するのが美学だと僕は思ってますので。逆もまた然り」

ロングコートの裾をぐいぐいと引っ張るレトヴィザン。
時代錯誤の社会主義者め、と毒を吐きながらもクリスは何とか聞き込みに答える。真面目を体現したようなレトヴィザンがクリスは苦手だった。
愛車の椅子にどかっと座り込む。長時間の変身の反動がまだ響いているのか頭が痛んだ。
だが、それだけがクリスのテンションの低い理由ではないのだとアーチャーは見抜いていた。
基本的にクリスと感覚がリンクしているアーチャーにはクリスの漠然とした意思や感情が流れ込んでくる。てっきりアーチャーは今流れ込んでいる負の感情は怒りや疲労感といった物だと思っていたがどうやら違うらしい。

(…………?)

自責の念、とでも言えばいいのだろうか。とにかく、クリスの心はそれに満たされていた。
何故、とアーチャーは思う。確かにもう少し早く現場に着いていればあの警察官は助けられたかもしれない。
だがクリスは過去に傭兵の経験があると言っていた。それに趣味こそ俗っぽいが生死観についてはかなりドライだ。
だからこそアーチャーは疑問に思った。この男を苦しめる物は何なのか。
近いうちに、嫌でも聞く機会が来るのだろう。
そう考えながらアーチャーはクリスとのリンクを切り、いつもの選曲とはテイストの違う昔のジャズに耳を傾けた。
警察寮に帰るまで、クリスは口を開かなかった。



冷ややかな風が吹き渡る屋上。室外機だけが空気を掻き回す。
そこに二つの人影があった。
一つは灰色の髪を結った細身の青年。その片手には板チョコが握られていた。
一つは青年とは対照的な、黒づくめの男。青年をその目に捉えると片手に握られていたて鎌を無造作に実体化させ振りかぶる。

「…重症だな。意識が黒カードの英霊にほぼ乗っ取られてかけている」
『酔っ払いかい?なら水かけるか、ブン殴って目ェ覚まさせるのが一番だよ!』

筋肉を活かした俊敏さで地面を蹴ると、飛びかかる黒づくめ。それに対し青年はチョコを仕舞い、その場から右足を後ろに動かしただけだった。
体格差。青年の体は大男のそれと比べるとあまりに細い。だが青年は指を畳むと、拳を作り肘を引いた。
そして真っ直ぐに構える。

『ーーーおりゃぁぁぁぁぁぁぁ!!!!』

気合と共に、力を溜めて放たれた正面突き。
カウンターの一撃を腹にぶち当てられた黒づくめはそのままフェンスと衝突した。衝撃でペストマスクの端は欠け、そして体から黒カードが排出される。

「うぅ…ここは?」
「ようやく目が覚めましたか、お客さん」

大男に変身していたのは、ボロボロの服を着た冴えない顔をした中年の男だった。青年は彼から酒の匂いを嗅ぎ取りながら、半ば強引にまだ困惑が冷めない男の襟を掴んで立たせる。
その顔には商業的な笑みが貼り付けられていた。

「お前は、あの時の!」
「時間があまり無いので単刀直入に言いますと、貴方は少々これを使いすぎました。警察にもバレています。このままでは捕まるのは時間の問題です」
「そ、そんな…!?どうすればいいんだ!?」

狼狽る男に青年は黙って平手を突きつけた。

「黒カードの意思に乗っ取られかけている今、黒カードを廃棄するしか方法は無いでしょう。どうです?良ければ私の元で引き取らさせていただきますが」

男は迷った。黒カードをこのまま使い続ければ自分は間違いなく破滅する。だから青年に渡して全てを忘れるのが一番合理的なのだろう。
だが、あの黒カードがもたらしてくれる力はあまりに魅力的だった。気に食わない者ーーー例えば自分にしつこく職務質問をしようとしてきた警察官ーーーを一方的にいたぶれるのだ。近頃は乗っ取られるとかで少し意識が薄くなりつつあるとはいえ、あの快楽と刺激は他で埋められるものではない。それにカードだって高い金を払って手に入れた物だ。
そんな力を、本当に手放していいのか?

「……いや、これは俺の物だ!渡すものか!!」
「それで本当によろしいんですね?」
「あぁ、邪魔する奴は殺してしまえばいいだけだからな!」

男は黒カードを握りしめると、乱暴に吐き捨てると走っていって屋上から出ていった。その背中を見送りながら青年はチョコを食べるのを再開する。

『なんだい、ありゃ。殴ってやったというにやっぱり酔ったままじゃないか。夢と現実の区別が付いていないよ』
「…カードの中毒性は半端なものじゃない、でもここまて短時間で乗っ取られかけているのは初めてだ。渡したカードの英霊と彼の気質があっているとはとても思えないけど、場数さえあれば関係ないのか?」

青年はあの黒カードに封じられた猟兵の英霊と、連続通り魔事件の全貌を思い出す。
カードの使い手が何に黒カードを用いるかはバラバラだ。大半は金稼ぎや強盗などに使うが、偶に殺人にまで発展する者もいる。
今までは警察としての立場を利用してもみ消していたがあそこまで発展されるのは予想外だった。現に警察では既に対策本部が設置されてしまった。

「まぁいいさ。今回せっかく助けに入ってあげたというのにあんな調子じゃ次はすぐに現行犯だろうな。そうなったら警察に何か喋る前にトドメを刺してあげるか」
『なんだい、逮捕するんじゃないのか?』
「それとこれとは別だよ、別。…そういやこのカードもそろそろ売らなきゃな」

青年は笑いながら、黒カードを取り出した。それをクルクルと手の中で弄ぶ。この黒カードは他の物とは違い適合する人間が限られている。だから売る優先順位としては低くこうして最後まで手元に残っていた。

「女子高生の間でカード集めのブームとか来てたりする?無料でプレゼントしてみようかな」
『…あたしに聞いてどうすんだい。…というかあのガンマンと戦ってる時どうして黙ってたんだ?アンタらしくもない』
「そりゃ部下とは出来るだけ穏便に仲良くするのが良い上司としての条件だからさ」

孟飛刀の嘆息をバックに再びチョコを口にする。いつもと変わらぬ甘みが広がるのを確認しながら青年は警察署に戻るべく屋上から出ていった。




「ここか」

太陽が傾き始めた昼下がり。
都市部とは離れた潜柱町の住宅街にウィリーは来ていた。住宅街、とは言っても人気は薄かった。
元々住民があまり多くないのだがこの一帯は尚更そう感じさせられた。
それは目の前の家が原因だろうか、とウィリーは思った。家ーーー黒門家は全ての雨戸が閉められていた。
普通の住宅より大きい庭には雑草が生え、壁も風雨に晒されたのかボロボロだ。
まるで生活感が無い。本当に人が住んでいるのだろうか、と疑ってしまうぐらいだ。

「さて…」

今日は探偵事務所を閉めた。
何故なら事務所を出るまで児童虐待についてウィリーは調べられるだけ調べる必要があったからだ。ウィリーは探偵をやってはいるがこういった依頼は初めてだ。だからミスをするわけにはいかない。
そのため虐待の証拠と本人の証言を入手、専門の窓口や機関に送りつける次第だ。時間をかける事は最悪の事態を呼び寄せるだけだ。
侵入できそうな箇所は多数ある。そこから入って小型監視カメラなどを設置、証拠を掴むという手段を取ることにした。いざ証拠を提出する際には、カメラは黒門澪が設置した事にすれば良い。
思考を巡らせながら人の気配が全くしない幽霊屋敷の様な家を見上げていると、隣から声をかけられた。振り向くとそこにはワイヤーカートを引いた老婆が立っていた。
老婆はこの辺りでは見慣れない外国人であるウィリーを訝しむ様な目で見上げる。

「お兄さん、そこで何をしとるかね」
「この家が気になっただけだ。この家の人間について何か知らないか?」

敬語を使おうとしない無行儀な態度の男に対し、不満げな顔をしながらも性分なのか老婆はつらつらと喋り出した。

「黒門さんちはね、昔は普通の家族だったんだよ。近所に住んでる私にもよく挨拶をしてくれた。…けど、5年前に奥さんが事故で亡くなってからご主人はあらゆる事へのやる気を失っちゃったんだよ」
「やる気?」
「あぁ。もう働くのを辞めてギャンブル三昧さ。奥さんの保険や親戚の支援とかで娘さんは学校に通えてるみたいだけど…家は見ての通り荒れてるし前々から不安の種だね」

老婆の話を聞きウィリーは納得した。確かに精神的に不安定ならば家族間での暴力に発展する可能性もあるだろう。
礼を言うと老婆が立ち去るのを確認してから、ウィリーは塀をよじ登り、取り合いから二階の窓ガラスに触れる。鍵は幸運にも掛けれられておらずそこから侵入する事にした。
ほぼ全ての部屋での雨戸が閉まっているせいか家の中は暗かった。暗視の魔術を自身にかける。廊下には物が散乱していて何も見えない状況で歩くにはあまりに危険だった。荒れた家庭環境は容易に推測できた。
今日も学校に黒門澪が来てないと来野から連絡が来たが彼女は今どこに居るのだろうか。
頭の片隅でそう考えながら各部屋にカメラや、小型の録音機を設置して回る。使い魔などの魔術は敢えて使わなかった。その場で解決出来る依頼ならともかく、今回の件は後で証拠を提出する必要があるので裏世界の手段は迂闊には使えない。そうして後は迅速に帰るだけとなったのだがーーー

「この部屋、鍵がかかっているな」

ある部屋の扉にウィリーは違和感を覚えた。その扉には鍵穴があったからだ。
基本、屋内の部屋に付けられる鍵は内側からのみかけられるものだ。公的な施設ならともかくここはあくまで一般用の住宅のはず。まるで何かを隠すためにわざわざ掛けた様だった。

「…試してみるか」

ウィリーはコートのポケットから年季を感じさせるピッキングセットを取り出す。しばらく弄っているとかチャリと音がした。慎重に扉を開けていく。そしてウィリーの目に映し出されたのはーーー

「これは…」



黒門澪は裕福な家庭という事以外は比較的普通の人間だった。
父がいて、母がいた。小学校に通い、友達を作り地元の中学校へ進学した。
人並みの幸せを受けていた時期。
そしてある日母が本当に突然交通事故で亡くなった。酔っ払いの運転による即死だった。
世間でいう普通でなくなったのはその辺りからだと記憶している。
父は三日三晩慟哭し、四日目に出てきて澪の腕を掴んだ。家には地下室があった。元々はステータスの高さを表すためのそこで、澪は初めて暴力を知った。
思うに父は澪と同じで比較的普通だった。
ただ、悲しみの行き場だけが普通とは決定的にずれていたのだ。
そして今日もそれは繰り返される。

「………」

彼女は何も喋らない様にしている。不用意な刺激はより長引かせるだけだ。
父がいつその悲しみから抜け出せるかはずっと近くにいた澪にもわからない。ただ我慢すればいい。暑くてもカーディガンが手放せなくなったのはいつからだっただろうか。

「ふざ…が…だから……」

父が何かをボソボソと呟いて何かを弄くり回している。カッターは一昨日使ったからそれ以外の物だろう。
どんな痛みにだって耐えてきた。それが唯一澪の側にいてくれる家族を治す術なのかもしれないのだから。
そうして再び彼女が目を閉じようとしたその時、父親の体を黒いオーラが覆った。冷たい風を巻き起こしたそこに立っていたのは二本足で立つ知らない人間だった。
だが血走った目がギョロリと覗く欠けたペストマスクをつけたそれは他の誰でも無い父だった。
直感でそうわかってしまった。

「…いや、いや!!」

歪んだ心がそのまま姿になってしまった様なあまりの変貌に恐怖を抱いた澪は逃げ出そうとした。しかし地下室は決して広くない。扉を背にした黒づくめの化け物から逃げる術は残されていなかった。

『今、まで、悪かっ、たな、澪』

黒づくめは喋るのも苦しそうに途切れ途切れに喋る。澪の目にはまるで何かを抑えつけている様に映った。

『だが、これ、も、今日で、終わり、だ』

黒づくめはそう言い切ると手斧を振り上げ、澪の腕を切断した。断面からは夥しい血が吹き出し壁を真っ赤に染め上げる。
だが澪にはその言葉も、肩から先への喪失感も届いていなかった。あるのはただ強い疑問だった。

「終わり…?」

終わり、とはどういう事だ。今まで自分は父の為にここまで我慢して耐えてきたはずだ。肌に治らない傷を残されても歩きにくくなるまで蹴られてもそれまでの友人関係を全て無くす事になっても耐えてきた。
あの日、気が迷って自殺しようとして失敗した時に気づいたはずだ。自分は死では決して家族からは逃げられないのだと。どんなに歪でもこれが家族との繋がりだと信じて自分に思い込ませてきた。
なのに、なのに?ここで終わりなのか?
じゃあ自分が今まで苦しんできたのは何だったんだ?

「ふざけるな…!死ねるか…こんなところで…!」

澪の心の中で一つの小さな芽が生えた。
憤怒の種から芽吹いたそれはあっという間に澪の心に絡みつき根を突き刺した。澪の心から復讐という感情を吸い取り、あっという間に成長したそれは恐怖による麻痺をかき消す。
澪は目の前の理不尽に抵抗する為に何か無いかと視線を巡らした。しかし武器になり得そうな物はない上に、片腕の自分では相手にならないだろう。

「何か…何か無いの!?」

その時だった。
カタ、と音を立てて服の隙間から冷たい床に滑り落ちた一枚のカード。暗闇に慣れた目でもそれがとても真っ黒に映った。
そして、何故だかそのカードに惹きつけられて目が離せない。まるで自分がずっと求めていた言葉に出来なかった物の様だ。
いつの間に入っていたかなんて関係ない。思考を挟む隙も無く震える手でそれを掴み取る。瞬間、熱い何かが身体中を駆け巡った。高揚感が指先から足までをあっという間に支配する。
こんなカードを見たのは初めてなのに知っているかの様に澪は胸元へとカードを導く。そしてカードはそれに応えて澪の身体へと溶けていった。
ーーー最初に変化したのは髪の色だった。
何でもないただの髪色は真っ赤な血の色へと染め上げられ、対して肌は不気味なほどの白色に移り変わる。着ていた服は一瞬で生地の薄い黒いドレスになった。
そして開かれた眼は彼岸花の様に毒々しい紅色だった。
黒づくめの動物的本能が告げていた。目の前の相手はただの叛逆者ではない、かの神(ツァーリ)にすら匹敵するほどの力を持った存在だ。

『ツァーリを…愚弄するか!!』

手鎌を構えると澪へと飛びかかる。叛逆者への粛正、己の邪魔をする者への報復。一撃でその細い首はいとも容易く吹き飛ぶだろう。
だが、その考えは甘かった。突如として床を突き破って現れた大量の木の根。その一本一本は太く濃厚な神秘を纏い、聖槍の様だった。そして澪と黒づくめの間に絶対的な壁を作り、手鎌の攻撃を完全に防いでいた。

『ーーー⬛️⬛️⬛️⬛️!!!』

激昂し、言葉にならない遠吠えが響く。根に食い込んだ鎌を、無理やり引き抜いて壁を突破しようとするがーーー

『憤怒、か』

その言葉は澪だけの物では無かった。そして黒カードの中に閉じ込められていた英霊だけの物でも無い。
澪と魂の在り方がとても似ていたせいだろうか。彼女達の魂は急速に癒着し、一つとなりつつあった。

『ーーー持ち合わせているのは、それだけか?』

完全に侮蔑した言い方だった。
顔にかかった返り血を指で拭いて舐める。蠱惑的で危険な笑み。
そして主人と同じく、愚かな獲物の血を吸った根達は、生き物の様に大きく揺れ動き太さを増していく。その成長はとても狭い地下室に収まりきる物では無く、壁を破壊し地面を割り地上へ上へとと伸びていった。轟々と音を立てながら根達は絡まり合い、やがてそこには一本の巨大な木が立っていた。
家を完全に押しつぶし、樹齢数千年といっても信じてしまいそうな程大きく成長した根の集まり。結晶化した血の果実が禍々しく夜闇に輝く。
そして彼女はその頂へと当然の様に立った。それはまるでこの世界を見下ろす神の座だ。

『久しいな、人の世よ。だが物足りぬ。直に我が憎悪で染め上げよう』

太古から現世へと舞い降りた女神。今ここに、あらゆる負の感情を引き連れ、己を蝕む世界全てへの復讐を果たそうとしていた。

  • 最終更新:2020-07-11 23:15:00

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