泥水を啜る
極東の島国、日本。飛行機を乗り継ぎ、窓から見える海の広大さと日本という世界でも有数の経済力を持つ国家を乗せた島々の複雑な造形に目を丸めたのも束の間。空港から出て初めて飛び込んできたビル群に、カトカの抱いていた淡くも魅力的な自然溢れる神秘の郷というイメージはいみじくも打ち砕かれ、そうこうしている間にサーヴァントを喚ぶこととなり、それからマスターとおぼしき魔術師とも会った。彼らのサーヴァントも見た。
分かってはいたが、頭では十二分に承知していたはずだが、それでも彼らとの実力、素質、造詣深さの差に来日当初日本という国と同じように抱いていた、僅かにも残していた希望は───希望というには矮小が過ぎる。願望と形容すべき思念は、音を立てて崩れて灰と化した。この聖杯戦争において、意気地無しはカトカしかおらず、凡百なのも、鈍重なのも、また然別だ。どこを取っても、見渡しても、カトカに劣るような人はいない。
ここまで考え、自分が安易に安直な悲観に陥っているのに気づく。元から分かりきっていたことではないか。自分が凡百なのも、鈍重なのも、意気地無しなのも、母のような器量がないのも、祖国で身をもって知っていたことじゃないか。今さら悔いてどうする。今必要なのは現状がどうかではなく、これからがどうかだ。美しい花が、気高い花が最後まで生き残るなんて道理はない。自分は、今はきっと雑草だ。名前も覚えられないような草花。それでも、自分なりに咲き、生き残って見せる。ミントのような植物になったとしても、戦わなければ生き残れないなら。
────それよりも、目下の問題は。
ソファーに座った状態で、ちらと台所の方に目を向ける。付き人もいなければ現地の家政婦なんかも雇っていないため、来日当初なら本当はカトカ以外に台所で音を立てる者などいないはずであった。今は違う。
「……あぁ、マスター。味付け、辛めが良いですか?それとも甘め?」
「……辛めで、お願いします」
「はい。かしこまりました」
カトカが自身を見ているのに気づいたのか、アサシン───ジョン・ウィリアムズは穏やかでどこか楽しげな声をして今作っている夕食の味付けの具合を訊ねてきた。作っているのは恐らくペチェカフナ。ハーブの香りが鼻腔を擽ってくる。カトカの祖国、チェコの料理であり、遠方の地で故郷の食事は思ってもみない喜ばしいことだった───何故アサシンがそれを作れるかはほとほと謎であるが。
一見すると、アサシンは親切で家庭的な、正直言ってカトカよりも女子力高い人好きのする青年であり、その印象は今見ても揺るぎない。元からそこそこ中性的な顔立ちで、時々女性的なたおやかな仕草を自然と取ったりするものだから、むしろ一緒に過ごす中でより強くなっていっている。
本来なら、それで終わっていた。カトカは、自分は良いサーヴァントと巡り会えたなと思って、何の気兼ねもなく聖杯戦争に臨んでいた。静かで平凡で牧歌的な、無色透明な、下準備の日々が崩れたあの夜さえなければ。
アサシンが、夕食の材料を揃えるために出掛けて、二時間経っても帰ってこなかった日。不安で仕方なくなって、近所のデパートへ続く道に沿って探した日。路地裏で、日本に来て初めて「死体」を見た日。赤い血。垂れた手。沈んだ上着。汚れたズボン。開いた口。開いた目。開いた頭。アサシンの顔。返り血を拭く手。こちらに気づいて、「ご心配をおかけしてしまいすいません。帰りましょうか」と言い、初対面で見せたのと同じ笑顔をして、歩く後ろ姿。帰宅後も、翌朝も、今日も変わらない紳士的な振る舞い。見間違いのようで、夢のようで、幻覚のようで、それでも現実として脳裏に焼き付いた色。
あれはなんだったのだろう。その疑念が、今もカトカの傍を彷徨いている。忘れようと努めても、視界の端に映る度に疑心がカトカの首を擡げる。
「────ねぇ。アサシン」
口を開く。瞬き一つ分の間を置いて、アサシンが、なんでしょう、と返してくる。いたって穏和な声色。次いで、アサシンが真向かいに座ってくる。大変に軟らかな物腰。それが、この疑念でどう変わるのか。好奇心ではない、只酷く心を突き動かしてくる真実を求める欲が、言葉になって溢れる。
「アレは…どういうことなんですか?」
「アレ…と、仰いますと?」
「………先日の、その…路地裏の、ご遺体のこと。アレは、貴方の仕業でしょう?」
「……………」
部屋に、張り詰めた空気が静寂と共にやって来る。息を吸って吐くのも苦しいが、それでも引くわけにはいかないと奮い立ち疑問を畳み掛ける。
「…私に責任があるなら、不平や不満や、問題があるなら言ってください。何か心配事があるなら聞きます。只本当のことを言ってください。私と貴方はペアなんですから」
アサシンが眼を睜ってこちらを窺ってくるため、同じくらい見開いた眼で見詰めかえす。先に目を逸らしたのはアサシンの方で、彼は悩ましげに細い指を顎に当てた。じっと待った。
「……私にとって、迚も、迚も大切なことだから、でしょうか」
「…大切な?」
「はい。生き物が呼吸するような…いえ、もっと原始的な……自分の細胞を入れ換えるのと同じようなもの、なのです」
しばらく言葉が出なかった。何を言っているんだろう。何か勘違いをしているのではないか。そうじゃないと、あんなのが迚も大切なことな訳がない。
カトカが辟易していると、アサシンが「マスターは」と話し始める。黙ってみた。
「ショーペンハウアーのエントロピーの法則、というものをご存知ですか?」
「…はい」
やっとの思いで出した声は震えていた。『ショーペンハウアーのエントロピーの法則』。曰く、樽一杯の泥水に一滴のワインを垂らしてもワインにはならないが、樽一杯のワインに一滴でも泥水が入るとそれは泥水になる。感覚的な話のように思え、それが何故出てくるかがわからなかった。
アサシンの話は続く。
「サーヴァント、英霊は謂わばワインです。貴賤性別知名度時代に関係なく、術からく。人々の喉を潤すばかりか、香りや風味、アルコールで幸福感を与える」
それはわかる。カトカも、幼い頃は地元や外国の英雄譚を愛読し勇気を貰ったり教訓を賜ったりした。しかし、まだ話が読めない。
アサシンの話は続く。
「だからと言って、反英霊が泥水というわけでは決してありません。彼らもまた一種のワイン。同様に、マスターたちのような今を生きる人々も決して泥水ではありません。水、と例えましょうか。育ちかたや貧富性格諸々は違いますが、誰もが清らかな…少なくとも、泥水からすれば迚も清らかな水です」
極めて優しい、教え諭すような様子で喋るアサシンの顔からは、情動が何もない────或いは、逆に情動に横溢していて、確かな感情は見えなかった。
アサシンの話は続く。
「ですが、泥水は確かにあります。尤も、それは無意識的で抽象的なものですが。…マスター。もし仮に、この近辺で凄惨な殺人事件があったとして、マスターはその犯人がどういった者か気になりませんか?」
こくりと、おずおずと頷く。アサシン自身がつい先日遭った殺人事件の犯人がいるというのに、新聞にも載るほどの残酷さを有した事件の加害者だというのに。顔色を一つも変えず。
アサシンの話は続く。
「マスターには大変申し訳ないのですが、私はワインではないのです。先ほどの法則を踏まえれば、私は疑う余地もなく泥水です。マスターや、大衆が想像するような…真実を求める中で自然と通る道に佇む行きずりの「犯人像」が、泥水が、多く混じった」
心底申し訳なさそうに眉を下げるアサシンの態度には、冗談も囈も一片とて含まれていない。だがカトカは、彼が粛々と、淡々と告げる「真実」とやらが飲み込めずにいる。抽象的過ぎるからとか、漠然とし過ぎるからとか、そういうわけではなく。
アサシンの話は続く。
「何故と云いますに、今となっては露とも思い出せないもので、全くの憶測となりますが、過去の私は────ワインだった頃の私は、ジョン・ウィリアムズは、迚も、迚も優しい人だったのだろうと思います」
すくと席を起ち、窓の外、ではなく、窓そのものを見ながら。
アサシンの話は続く。
「サーヴァントの中には、英霊と幻霊が合わさった者もいます。大半の理由は霊基の補強や縁からの自然な合成ですが、意味もなく、只漠然とした感情論だけを理由に幻霊を取り込む者もいます。「犯人像」なぞは幻霊よりもずっと格の低い存在ではありますが…それこそ、触れただけでワインでなくなってしまうような泥水ですが…ジョン・ウィリアムズは手を伸べた。」
「同情かもしれません。ある種の罪悪感が刺激されたのやもしれません。なんにしても、ジョン・ウィリアムズは彼らに糸を垂らした。綺麗な綺麗な蜘蛛の糸」
詩的で、およそ説明をしているとは思えないほど理性や思考から外れた言葉。不思議と、座っているのに目眩がした。窓を見る彼の目には、曇ったファナティズムの火が点いていた。
アサシンの話は続く。
「しかし、泥水たちは糸にへばりつき、絡み、その度に糸は重くなっていく。そうして、遂には糸の端の御釈迦様は蓮台から泥水へ落ち…その末の泥水が、今の私です。」
「マスター。貴方は私が、どう見えていますか?」
振り返った時のアサシンは、いつもの中性的な青年の顔だった。だったはずだ。はずなのに、瞬きをする度に、カトカの前には違う人物の顔が現れる。
アサシンの話は続く。
「泥水はワインへは成れない。樽一杯のワインを用意されても、泥水は泥水のままで、私はジョン・ウィリアムズには戻れないのです。私は。」
「男です女です老人です子供です黒人です白人です黄色人種です娼婦です貴族です無職です政治家です資本家です労働者ですプロテスタントですカトリックです犬好きです猫好きです短髪です長髪です文系です理系です体育会系です高身長です低身長です甘党です辛党です病人です大丈夫です右翼です左翼です既婚者です独身者です軍人です文民です外国人です日本人ですチェコ人ですアメリカ人ですO型ですA型ですB型ですAB型です被害者です加害者です」
「…これでも、全然足りないんです。水が流れるこの世の中で、泥水たちはもっといて、私が私であるためには、その泥水がもっと必要なんです」
「それも、一度きりじゃ駄目なんです。だって、どんな衝撃的な事件だって、いずれは忘れ去られて、興味も関心も持たれなくなって────その度に、私は死んでいくんです。だから、何度も何度も何度も、取り替える必要があって。」
もう一度瞬きをする。今度こそきちんとアサシンの顔になり、しかしカトカには、もうそれがサーヴァント、アサシン────“ジョン・ウィリアムズ”には認識出来なくなっていた。
当惑する他なかった。アサシンの話の締めからは、「仕方がない」という言葉が臆面もなく現れていた。生きるために、あり続けるために、「仕方がない」こと。殺人なんて受け入れられるはずがないのに、否定出来ない。自分の中でも「仕方がない」こととして処理されようとしている。
「でも、」
アサシンの話は続く。
「泥水に埋まれば埋まるほど、羨ましくなるんです」
ゆっくりとした足取りで近付く。
「貴方のような存在が。英霊という存在が。過去を持つ皆さんが。生きた証を持つ皆さんが」
白い指が包み込むように首に触れる。
「“私たち”は、どうしたって貴方たちに成れない。だから、」
喉元を中心に、指の力が強くなっていく。道が塞がれていく。
「「仕方がない」のに、どうしようもなく、羨ましくて、」
息が吸えず、吐けない。朦朧としてくる。気絶にはならず、只苦しさと痛みが首から全身に響いていく。制止しようとするも、手は動かない。目の前の彼の顔を見るしか出来ない。
「ねぇ、マスター。私たち、羨ましいんです。貴方が」
耳朶を打つ音は、言葉は、カトカが今までに何度も周りに対して心中で吐いてきたもの。いずれ、言われてみたいと思ったもの。それが、こんなにも軽率に、簡単に。
「これは、「仕方がない」ことでしょうか?」
彼の双眸の内には、幾つもの手が────様々な色や形をした手があった。求める手。奪おうとする手。引きずり込もうとする手。そのどれもが、カトカが心の内で欲していた羨望の眼差しに溶け込んでいた。
ピー、ピー、ピー、と軽い音が台所からする。そうすると、アサシンは「いけないいけない」とパッと無造作にも手を離し台所の方へ駆けていく。
漸くまともに呼吸が出来るようにはなったが、短い間でもせずにいたためにはじめは上手く吸えず嘔吐くようにして咳き込んでしまう。頬が熱を籠らせたまま火照っていた。首の輪郭を痺れている手でなぞると、ある程度の間隔を空けて細い凹みが出来ていた。つうと沿わせると、凹んでいない所より一層熱くなっている。
「マスター、すいません…」
声のする方、すなわち台所へ顔を向けると、大変に心苦しそうな表情でアサシンがいる。
「少し焦がしてしまって…その、そこは避けていただけると…」
無念そうに顔を顰める。まるで、先のことなどなかったかのように。忘れたとか隠そうとかそういった悪意なく、本当になかったかのように割り切って己がマスターに喋っている。
「………構いませんよ。別に、仕方がない。ですし」
未だに痙攣する手を下ろして、引き攣っているのは承知の上で笑顔を作る。
────これからは人に首見せられないな、などと考えながら。
- 最終更新:2020-07-12 15:44:00