お薬の時間

ぴちゃり、水滴の音が響く。薄暗く湿った空気が漂う地下牢に、彼女は囚われていた。手足を鎖で縛られながら、ヒュギエイアは苦しげに息を吐き、呻く。切り裂かれた足の傷がまだ痛むのだ。どうやら呪詛の類らしく、痛みは止まらずむしろ増している様だった。腱を切られたおかげでまともに動く事もままならない。
「おーい、起きてるかな 」
鉄格子の擦れる音と共に、男の声がした。語りかける様な優しげな声色にヒュギエイアの背筋が粟立つ。
「起きてるみたいだな。ミラーカの奴がかなり貴方を痛めつけたと聞いたよ。肋骨を砕かれたんだって?」
「……ふ、ぐ」
男の声に、ヒュギエイアは痛みに耐えながらも答える。舌を噛み切らない様にと猿轡を嚙まされ、口からは唾液がだらしなく流れている。
「猿轡は苦しいだろう、解いてやるよ。あ、舌を噛んだりしないでくれ」
男がゆっくりと猿轡を解いてやるのとほぼ同時にヒュギエイアは舌を噛み切ろうと力を込める。約束など守るつもりは毛頭ない、生きている事さえ屈辱なのだ。
当然そんな行動は読まれていて、即座に頬を鷲掴みにされた。ぐっと男が顔を近付け、
「ダメだろう、約束は守ってくれないと。もし次やったら顎を引きちぎるぞ」
ゾッとする声色でそう言うと男はダメ押しと言わんばかりにヒュギエイアの頬を強く殴りつけた。口の中が切れて血飛沫が飛ぶ。
「頼むよ、女を殴るのはあんまり好きじゃないんだ」
「……カサンドラを犯しておきながら、どの口で言うんですか小アイアス」
「おっと小は余計だろ。俺が弱っちぃみたいじゃないか」
「図に乗った挙句神に殺されたんでしょう?」
小アイアスの表情がわずかに揺らぐ。更に一発殴られるか、とヒュギエイアは奥歯に力を込めるが、小アイアスは予想を異なり笑顔を浮かべてみせる。
「まぁ良い。俺がここに来たのは、貴方に情報を吐いてもらう為。いい加減に仲間の居場所を吐いてもらえないかな」
「……断ります」
「そう言うと思ったよ。骨折られたくらいじゃダメなんだものな。だから……ちょっと良いものを持ってきた」
小アイアスは愉快そうに微笑みながら懐から小さな袋を取り出し、中から数本の注射器を取り出す。それらを目にし、ヒュギエイアの表情が少し強張る。注射器の中に込められている色とりどりの液体は彼女の武器である有毒な霊薬だ。
「何本か試してみた。おかげでどれがヤバいのか、ヤバくないのかもわかった」
小アイアスは楽しげに微笑みながらヒュギエイアの銀髪を乱暴に鷲掴みにし、細い首目掛けて注射針を突き立てる。
「ぐ、あっ……」
「あの医神の娘を抱かずに薬漬けにするというのは心苦しいが、仕事は仕事なんだ。恨まないでくれよ」
青色の液体が一気に流し込まれていくに応じて、ヒュギエイアはびくんと大きく震え
た。
霊薬を流し切ると同時に効果は現れた。小さな体が小刻みに震え、ヒュギエイアの苦悶の声が地下牢に響き渡る。
「う、うぐ、ぐぅぅぅ……!」
だがそこまでだった。苦しみこそすれど、ヒュギエイアの体は崩壊しない。小アイアスは予想通りの展開に頷く。
「やはり、自分にあらかじめ抗体か何か仕込んでいたな。対策済みか。だが……」
すかさず小アイアスは新しい注射針をヒュギエイアへと突き立てる。一瞬にして液体は流し込まれ、ヒュギエイアの体がまた震える。口がパクパクと忙しなく動き、首の血管が毒々しい色を伴って浮かび上がった。
「まだ薬はあるぞ。情報を吐けよ、今なら間に合う。俺の奴隷として匿ってやってもいい」
「こ、ろせっ……!」
「俺は殺すなと言われているんだ。たとえ何があってもそれは出来んな。せいぜい、死にかけるくらいまでだ」
ヒュギエイアの体は流し込まれる霊薬の効果を可能な限り相殺する。本来ならば霊核を容易く破壊できてしまうほどのそれを抗体は打ち消すが、しかしあくまで死なないだけで毒は確かに働くのだ。
「……流石だよヒュギエイア、その頑強な精神に敬意を表して今日はここまでだ。明日また来る」
小アイアスは苛立たしげにそう呟くと、再び猿轡を噛ませ、そそくさと地下牢を去っていった。霊薬を過剰に投与し続ければいずれ体が壊れると察したのだろう。
残されたヒュギエイアは凄惨たる有様だった。様々な霊薬を連続投与され、それら全てと抗体が相殺しあった結果体中に歪な跡が残ってしまったのだ。
足の末端は壊死し、黒ずんでいた。
左目は不気味に変色し、潰れていた。
体のそこかしらに痛々しい痣が現れていた。
それでも彼女は生きていた。全身を絶え間なく襲う痛みに歯を食い縛り、残った片目に怒りの炎を燃やして。
「……マス、ター」
少年の顔を思い浮かべると、幾分か痛みはマシになる。絶対に彼の事を守ってみせる、たとえ拷問の果てにこの命が尽きようとも、必ず。

  • 最終更新:2020-01-20 08:42:38

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